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生きていく上で大切なこと

人間は世界を、そして自然をありのままにとらえられないし、とらえるべきでもない。

僕が何を言っているのか、ちょっと説明させてもらおう。

あなたが、どこかの繁華街、たとえば、新宿歌舞伎町みたいなところ歩いていたとしよう。ちょっと危ない街だけど、肉食系男子のあなたは勇んで出かけていく (男子じゃないあなた、すみません)。すると、そこにはとてもおいしそうな女性が手持ちぶさたそうに立っていた。当然、あなたは食いつく。平たく言えば、ナンパを試みるわけだ。

どこかに飯食いに行かない、おごるから、ということをとってもうまくプレゼンテーションしたあなたは、めでたくその女性の同意を得て、さて、じゃあ二人で、とおもったその時、後ろから声を掛けられた。
さて、ここからスタートだ。あなたはどのように世界と向かい合っていくべきか。

後ろから「おい、にいちゃん」と、150 Hz 程度の基音とその倍音からなる、基本的にはだみ声に分類されるがそのほかに本来よりも音を低めてドスをきかせているとおぼしき声が、頭の後方 25 cm 以内という至近距離から聞こえてきたので振り返ると、あなたより身長が 5 cm ほど低く、パンチパーマの頭に茶色で比較的色の薄い大きなサングラスを掛け、サングラスの奥に除く目のまぶたは厚ぼったく、眉は剃ってあるのか薄く、右のほほには頬骨のあたりから鉛直下向きより唇側に 15 度程度ずれた傷を縫った跡があり、朝剃った髭が夜までの間に伸びたせいで黒々としている口周り、その中に陣取る薄い唇の間からのぞく歯はヤニのせいで黄色く、その歯で爪楊枝をシーシーと噛み、白いスーツをまといジャケットの中には黒いワイシャツを、第二ボタンまで開けて崩した感じで着て、襟元から金色のネックレスがじゃらじゃらとのぞき、左手を見るとこれまた指輪がじゃらじゃらでその上小指が異様に短く、グッチのセカンドバッグを小脇に抱えた右手の指も指輪がじゃらじゃらで加えてたばこのヤニのせいか皮膚が黄ばみ、だぼだぼの白いズボンに派手なバックルを光らせ、黒い靴下と白くてぴかぴかで先がとがった靴を履いたやくざが立っていた。やくざは先ほどと似たような声で、「わしの女に何するつもりじゃ」と、ヤニ臭い息を吐きながらかるくあなたの襟首を小指の短い左手でつかんで軽く持ち上げ、サングラスの奥の目に力を込めてこちらをにらみつけてきた…

はあ、これじゃだめだ。たぶん、あなたは正確に状況を認識したのだけど、ここで大切なのは正確さじゃない。「やくざだ、やべ、逃げろ」と判断して、一目散に逃げることが大事。逃げ遅れたら、ぼこぼこにされ、有り金全部巻き上げられちゃうよ。

逃げるという判断をするためには、相手がやくざであって、こちらに敵意があることさえわかればいい。歯にヤニがついていたかとか、左手の小指を詰めていたとか、そんな情報はなんの役に立たない。

逃げるときも気をつけよう。可能なら交番に駆け込むべき。そのとき、白いコンクリートの建物で赤いランプがついていてシンプルなレタリングの金属で K, O, B, A, N と書いてあり、なんて細かいことを把握する必要などない。交番に、できたら警察官がいることを確認して飛び込むように。

必要十分

自然を、そして世界をそのまま記述しても役には立たない。正確さが重要なのは認めるけど、でも、微に入り細を穿った正確さは必要ないんだ。人間が把握できるように、必要のない情報は切り捨てて、必要な情報を圧縮し、脳みそで処理できる程度の大きさに加工する必要がある。

さっきの話でも、眉が薄いだとかパンチパーマだとか、そんな情報は必要はないわけだ。小指がないとかは、やくざだということを認識する手助けにはなるかも知れないけど、そんな個別のことではなく、「やくざ」だと認識するのが重要。

人間は、世界と向き合うときに情報を取捨選択し、圧縮している。僕の脳みそが、そして、たぶんあなたの脳みそも、世界をあるがままにとらえるためには小さすぎる。あるがままにとらえることができるのは、神だけだろう。神がいるとすれば、だけど。

さて、情報を取捨選択、圧縮しているわけだが、情報量を小さくすれば良いというものでもない。たとえば、さっきの場合なら「やくざ」だと認識することが重要なわけだ。ここで言いがかりをつけてきた人を「あ、かわいい女の子」と認識するような間違いを犯すのは論外だけど、間違っていないからと言って、「日本人だ」とか「男性だ」とか認識してしまうと、これまたまずい。だって、「逃げなきゃ」という判断にたどり着かないからね。

大事なのは、的確な判断するために必要な情報を確保すること。そのうえで、無駄な情報は省き、圧縮できるところは圧縮すること。つまり、必要十分な情報の確保、これが、僕たちが、世界と対峙していく上で大事なことだ。

必要十分、と書いたけれど、なにが必要十分かは時と場合によって異なる。たとえば、あなたが喧嘩慣れしている人だったとしよう。だとすると、逃げなきゃ、という判断をせざるを得ない普通の人とは、必要十分な情報というのが変わってくる。

普通の人間の場合は、相手がやくざだという情報が必要十分だった。でも、喧嘩上等が信条のあなたの場合、そこで見るべきは、相手の筋肉のつき具合、こちらを脅す時の目つきや姿勢や手の動き、ジャケットの中にドスやハジキを忍ばせていないことの確認、近くにやくざの味方がいるかいないか、など。多くの情報を一瞬のうちに把握するはず。そして、それらはあなたには「必要」な情報のはずだ。

喧嘩上等の人間と、普通の人間、同じシチュエーションでも、必要十分と言える情報は異なるわけ。喧嘩が好きな人の方がよりたくさんの情報を集め、それを活用する。最終的には逃げるべしということになるかも知れないけれど、同じ結論に達するにしてもより深い判断を下しているわけだ。じゃあ普通の人が同じ情報を集めて深い判断をすべきかというと、そんなことはない。相手の武器を確認するぐらいだったら速く逃げた方がいい。

なにが必要十分なのかというのは、だから、人や状況によって変わっていくわけだ。そして、必要十分に世の中を理解するというのは、人間が生きていく上で大切なこと。まあ、そんなこと、僕が言わないでもみんな知っていると思うけど。

でも、そうはいっても、人間、人生を送っていく上で様々な問題に出会ったとき、なにが必要で、どこまで知れば十分かなんてことを見極めるのはなかなか難しい。それを的確に見極められる人が、多分出世するのだろう。

ただ、その必要十分から外れたところが、人生のおもしろさなんじゃないかな、と僕は思うんだ。ははは、こんなこと言っても、出世できない人の強がりと思われそうだけど。そして、こんな、必要なことが書けていない割には十分以上のたわごとを並べているブロガーの言い訳に聞こえそうだけど。

いずれにせよ、必要十分というのは大切だ。人間が世界と対峙する際に、世界を把握する際に、ひいては他人に何かを説明する際にも、心得ておくべきことだ。

モデルと必要十分

あれ、僕、なんでこんな話を長々としてるのだろう?あ、そうだ、モデルとは何かについて考えるためだった。

そもそもモデルとは何か。これは、英語の model という単語からきている。model の意味は、「模型、ひな形」とか、「模範、手本」とか、あと、これは日本語でそのまま取り入れられている、「文学作品のモデル」、「ファッションモデル」などがある。その他に、自動詞、他動詞としても使えて、他動詞だけ紹介すると、「~の模型を作る」「~を基にして作る」といった意味がある。

まあ、もう一度この単語の意味については触れるつもりだから、これぐらいにしておくけれど、僕が思うに気候学で使われるモデルの元々の意味は、自然 (なりなんなりの研究対象) を理解するために作った「模型」「ひな形」であり、動詞としてのモデルはその「ひな形」を作り出す作業のことを言うわけだ。

何のためにモデルを作るのか。それは、自然を理解するためだ。それでは、どのようにモデルを作るのか。個別のシチュエーションに応じていろいろだけど、心にとめておくべきは、モデルは自然全てを模倣する必要はないし、そうすべきでもない。そんなことは不可能だし、何の役にも立たないからだ。人間は神ではないのだから。

大事なのは、必要十分。そう、人間が世界と向き合う際にあるべき態度と同じだ。

モデルとは、気候学では自然を説明するための道具なんだ。

それではいったいどんな道具なのか?気候学では、そして、多分物理学の多くの分野で、そしてそれを言うなら経済学など数学を活用する学問分野では、モデルというものは、なんらかの定量的な説明をつけるための仕掛けになっている。

定量的ってことは数字が出てくるということで、つまりは数式でできている訳だから、なんか敷居が高く思えるかも知れない。でも、それなりの御利益はあるし、親しみやすい部分もある。なんと言っても「動かして遊ぶ」ことができるんだ。文字だけでできた説明だとそんなこと無理だよね。

ということで、ぐだぐだ話してきた割にはまだまだモデルとは何かについて語れていないけど、まあ待ってください。

次の記事では、具体例として簡単なモデルを作ってみる予定。
タグ 記事:モデルとは はてなブックマーク - モデルとは何か (2) 我々は世界をどのようにとらえるべきか
2010.05.24 Mon l 温暖化論概論 l COM(2) TB(0) | top ▲

コメント

世界の捉え方
なんとなく、福岡伸一さんの「世界は分けてもわからない」を思い出してしまいました。
世界は分けてもわからないのはその通りです。同時に、分けないことにはわからないものでもあるのですよね。世界を「分けて」モデル化しても完全に理解できないのはその通りですが、同時にモデル化しないと理解できないものでもあるのかな、と。
2010.05.29 Sat l mushi -. URL l 編集
Re: 世界の捉え方
mushi 様

コメントありがとうございます。

地球システムは複雑なシステムで、全てが絡み合っているので、わけて考えることの危険性は常に認識している必要がありますね。

でも、一方で、わけて考えてはいけない、という結論にはならないと思います。全部をまとめて理解する方法論を持っていれば別ですが、そうではない以上、できることをやっていく必要があるわけです。ここからしばらく説明していくモデル化は、mushi さんのおっしゃるように、分けて考える方法だと思います。

福岡さんの御著書は読んでいないのですが、こちらの記事は読みました。

花粉症も地球温暖化も「ムダな抵抗はしない」が正しい -- 動的平衡で考える生物学~福岡伸一・青山学院大学教授(後編)-- 日経ビジネス ONLINE
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090818/202779/
(無料会員登録、ログインが必要)

「動的平衡」という魔法の言葉でいろんなことが説明されていて危なっかしいなという印象を受けました。福岡さんによると、

<引用はじめ>
いまの問題は、炭素の循環の一形態が二酸化炭素という状態に留まり過ぎていることです。ただ、その状態が温暖化をもたらしているかどうかわかりません。もたらしていないかもしれない。

でも、確実なのは、循環の滞りが動的平衡に歪みをもたらしていることです。その状態が続くと、とんでもない事態に陥るのは間違いないでしょう。
<引用終わり>

ということで、一応 CO2 削減は良いことだとおっしゃっているように見えますが、論理の展開を変えるとあっという間に逆の答えが導かれそうなおそろしさがありそうです。そう感じるのは私が「動的平衡」を理解していないからなのですが…。

「世界は分けてもわからない」は読んでいないので何とも言えませんが、何らかの卓見が含まれているはずです。それと整合するかどうかわかりませんが、私としては、分けてもわからないこともあるし、わかることもある、いまのところ分けないと手も足も出ないので、分けてわかるところを大事にしていこう、という態度が良いのではないかと思います。
2010.05.30 Sun l onkimo -. URL l 編集

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