これは 2 回つづきの記事の 2 回目です。先に前回の記事を読んでください。
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槌田さんタイプの「異端」の「天才」を、気象学会があえて受け入れる必要はないと思う、もうひとつの理由として、温暖化研究の「正統」が堂々とそびえたっていることこそが、「異端」を育てるよい土壌になるからだ。
つまり、気象学会が毅然と「異端」を排除することにより、「異端」の側にもメリットがある、ということだ。
異端が科学を発展させる歴史の中においても、正統の役割は決して無視できない。先にあげた例で言うと、コペルニクスやガリレオ、ケプラーだって、地動説を唱えて革命をおこすことができたのは、正統がつみあげてきた精緻な天動説の体系があったからこそ、だ。
天動説だって、紀元前 4 世紀にエウドクソスが提唱した、単純な天動説で止まっていたわけではない。古代ギリシャの、数学、科学の天才たちが、周転円などを組み入れ、それを 2 世紀に体系化したのがプトレマイオスだ。その後もアラビア世界などで継承、発展させられた。正統の側も、決して馬鹿ではない。彼らの枠組みの中で、理論を精緻にしていたのだ。
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槌田さんタイプの「異端」の「天才」を、気象学会があえて受け入れる必要はないと思う、もうひとつの理由として、温暖化研究の「正統」が堂々とそびえたっていることこそが、「異端」を育てるよい土壌になるからだ。
つまり、気象学会が毅然と「異端」を排除することにより、「異端」の側にもメリットがある、ということだ。
異端が科学を発展させる歴史の中においても、正統の役割は決して無視できない。先にあげた例で言うと、コペルニクスやガリレオ、ケプラーだって、地動説を唱えて革命をおこすことができたのは、正統がつみあげてきた精緻な天動説の体系があったからこそ、だ。
天動説だって、紀元前 4 世紀にエウドクソスが提唱した、単純な天動説で止まっていたわけではない。古代ギリシャの、数学、科学の天才たちが、周転円などを組み入れ、それを 2 世紀に体系化したのがプトレマイオスだ。その後もアラビア世界などで継承、発展させられた。正統の側も、決して馬鹿ではない。彼らの枠組みの中で、理論を精緻にしていたのだ。
カトリック教会とガリレオの闘いがよくクローズアップされているから、あまり気にされていないけれど、実際は天動説がつくりあげてきた正統の体系は、コペルニクスによるシンプルな円軌道ベースの地動説を、ケプラーによるより正確な楕円軌道による地動説へと進化させる土壌になったのだと思う。正統の側に発展がなく、単純な天動説のままだったとしたら、ケプラーの三法則なんて生まれていなかっただろう。ケプラーの師が、当代随一の観測家、ティコ・ブラーエだったことも注意すべきだ。そして、ティコ・ブラーエは、天動説、つまり、正統側の人間。
いまではばかばかしいと思われている天動説だけど、その時は、当代最高の知性達がつくりあげた、人類最高の科学だったことに注意を払うべきだ。そして、だからこそ、「異端」地動説が取って代わり、発展できたんだ。
気候学も同様。温暖化の理論に関して言うと、最初に温室効果の概念を提唱したのは、フーリエ(物理、数学系の人間にはおなじみ、フーリエ変換のフーリエだ)らしい。19世紀の話だ。CO2 による温室効果は、アレニウスが最初に指摘したようだ。温室効果の本質的なこと、つまり、地球の気温がなぜ今のような温度になっているか、とか、金星はなぜ灼熱地獄になるか、みたいなことを説明できる理論は、すでにこのころ基礎が固まっていたことになる。
「温室効果」から一歩踏みだして、「温暖化」のことを研究しはじめたのは誰とすべきなのだろう。アレニウスたちが行なったことだけでは、単純すぎて、地球の温度がこの先何度上昇するか、なんてことは議論できない。もちろん、それは昔の人には現代的な地球温暖化を研究したい、というモチベーションがなかったからだけど、たとえその意思があってもできなかったと思う。研究しようとしても、人間の手にはあまる量の計算が必要だからだ。そのためには、コンピュータの出現を待たねばならない。
温暖化研究につながる研究のうち、初期のものの一つは、真鍋さんたちが 1967 年に行なった研究だろう。地球の大気に対して、水平方向には一様で構造がなく、鉛直方向、つまり、上下方向だけ変化している、という単純化をほどこし、CO2 や水蒸気による温室効果、温められて軽くなった下層の空気が上空に昇って行く対流の効果などを取りいれた計算だ。今では大学生の演習にちょうど良さそうな感じだけど、当時の計算機事情ではこれでもなかなか大変だったんじゃないかな。それでも、その当時は最先端の研究であったことは間違いない。
だけど、真鍋さんが行なったのはほんの第一歩。槌田さんは、この論文を批判しているけれど、決してこれは地球温暖化理論の決定版なんかじゃない。真鍋さんたちの仕事はその後、大気の力学、雲の科学、より精密な温室効果気体による放射への影響、海洋の影響、その他その他などと統合され、気候学の発展の礎のひとつとなった。気候学者たちは、より精密に地球の気候を捉え、そして、CO2 が増加したときにどのように地球が温暖化するか、という問題に対して、まがりなりにも答えを出し、その出した解答を、自ら批判し、少しずつ改良してきた。もちろん、今でも改良は続いている。
そんな活動が結晶化したのが、 IPCC の第 4 次レポート。ワーキング・グループ 1 (温暖化の科学的側面を評価するワーキング・グループ)のレポートの各章につらなる著者名を見て、どれだけ多くの人がこのレポートにかかわって来たかを見ると、これまで積み上げられてきたものの大きさに、僕なんかは溜め息をついてしまう。IPCC のレポートには、もちろん批判も多々あるだろうけど、これは人類の温暖化問題に対する研究の、現時点における最高の到達点なんだ。
積み上げられた成果の集合体、しかも、自らも参加して作り上げた、集合体。気象学会がそれを大切にするのは当然だ。それが正統、というものだ。そして、その積み上げられた理論は、緻密すぎて、槌田さんの論の入る余地はない。
僕自身はそんなことはないと思っているけれど、もしかしたら、IPCC のレポートは現在の天動説なのかもしれない。巨大かつ緻密、まだまだ至らないところはあるけれども、現時点での「正統」気候学の最高峰。
そう、正統は強大なのだ。だからこそ、異端も活躍しようがある。ちょっと風が吹いたらたおれるような正統では、やりがいがないよね。戦う相手が強大であればあるほど、パワーが出るだろう。相手の理論が緻密であればあるほど、その弱点を突く気合が入るはず。
だから、僕は、気象学会は槌田さんの論文を掲載拒否しつづけるべきだと思うのだ。槌田さんに変に媚を売って論文を掲載したりせず、堂々と巨木のようにそびえれば良い。槌田さんが気象学会を倒せなければ、それは彼の持論がその程度のものだった、ということ。もし槌田さんが正統の巨木を倒せたら、地面に横たわった巨木は、次の世代の科学を育む良い土壌となるだろう。
どうだろう。僕が、「異端」を気象学会の雑誌に載せる必要がない、と考えた理由がわかってもらえただろうか。たとえ異端狩りと呼ばれようが、その異端の論文がどんな「天才」の所業であろうが、気象学会の基準にかなわなければ載せる必要はない。載せても気象学会における学問水準の向上に寄与しないのは、前の記事に書いた。そして、載せたからといって、必ずしも異端側にメリットがあるわけではない、と思っているのは、この記事に書いた通り。
だけど、次のことは考えておかないといけないと思う。
森田さんのブログのコメント欄でいろいろな人が述べているように、槌田さんの論文を「玉稿」だと思う人がいるようだ。森田さんもそう思っているかもしれない。槌田さんの論文を読みたい、というニーズはあるのだ。僕自身も読んでみたいと思う。学術として、というより、エンターテインメントとして、だけど。
槌田さんの論文が「天気」に掲載されないとすると、このニーズはどのように満たされるべきなのか?
もちろん、槌田さんはこれまでにも温暖化関係の論文を書いており、世に出ている。たとえば、先の記事で見たような、「季刊at」のような雑誌には掲載されているのだ。
だけど、それだけではなく、槌田さんの論文を、理系の論文として、正当に査読し、掲載する論文誌があって欲しいと思う。
その論文誌は、しかし、気象学会の系列には存在できないだろう。日本のみならず、海外の、例えばアメリカの地球物理学連合や気象学会、ヨーロッパの地球物理学連合、そういった学会の系列の雑誌でも無理だ。
槌田さんだけではない。温暖化懐疑論の「玉稿」はそのほかにもいろいろあるはずだ。それらの論文の多くも、やはり気象学の方法論から大きく逸脱している。気象学会としては拾うことができない。
だから、僕は、温暖化懐疑論者達が学会を組織し、学会誌を発行して、そんな「玉稿」が公表される場を作って欲しいと思うのだ。
旧弊な気象学会が載せられない、素晴しい理論。それが結晶化した論文を精選して掲載する。当初は苦労もあるかもしれない。だけど、時が経てば、玉稿の集まる、素晴しい論文誌になるのは、温暖化懐疑論者には明白だと思う。
中心となる論文誌は、もちろん世界に発信するため、英文誌としてほしい。名称は、Journal of Alternative Climatology なんてどうだろう?新たな気候学を提示する、そんなスケールの大きな題名だ。もちろん、Alternative という単語は賛否両論があろうから、強くは推さないけれど。
同時に和文誌も発行するべきだろう。日本の懐疑論者のコミュニケーシションの場として、そして、一般読者へ向けた情報発信の場として。
以前、懐疑論者たちが学会を組織するべき、という主旨の記事を書いた。そこではあまり触れなかったけれど、学会を作ることは、いままで打ち捨てられていた「玉稿」を世に出す役割を果すためにも必要なのだ。これは、彼らの社会的責任でもある。懐疑論者たちは自覚していただきたい。
温暖化論陣営の本丸、「正統」気象学会に、果敢に「異端」温暖化懐疑論が攻めかかる。個々の懐疑論者としてではなく、集団として組織的に。そして、その武器となるのは、もちろん、「玉稿」を集めた論文誌、 Journal of Alternative Climatology だ。こんな雄大な図が見てみたいと思わないかい?
それにしても、森田さんはどうして槌田さんの論文を「天気」に載せるべきだと思ったのかな。追記で槌田さんの論文の URL を書いているわけだから、槌田さんの論文がどのようなものかは知っているはずだ。そのうえで、ブログ記事を書いている。
やはり、「天才」の著作だと思ったのだろうか。「異端」と思っていて、あえて載せるべきだと述べているのだから。是非、真意を知りたいものだ。記事だけでは書けない、なにかもっと言いたいことがあるのかもしれない。
槌田さんの論文を載せるべきではない、という僕の考えをどう思うかな?彼の論文を掲載する場所が必要だというのは、僕も同意見だ。違いは、その掲載する場が「天気」である必要はない、という点だけだ。
いっそのこと、森田さんが中心になって懐疑論者の意見を集めるのもいいかもしれない、と僕は思ったりもする。
いまではばかばかしいと思われている天動説だけど、その時は、当代最高の知性達がつくりあげた、人類最高の科学だったことに注意を払うべきだ。そして、だからこそ、「異端」地動説が取って代わり、発展できたんだ。
気候学も同様。温暖化の理論に関して言うと、最初に温室効果の概念を提唱したのは、フーリエ(物理、数学系の人間にはおなじみ、フーリエ変換のフーリエだ)らしい。19世紀の話だ。CO2 による温室効果は、アレニウスが最初に指摘したようだ。温室効果の本質的なこと、つまり、地球の気温がなぜ今のような温度になっているか、とか、金星はなぜ灼熱地獄になるか、みたいなことを説明できる理論は、すでにこのころ基礎が固まっていたことになる。
「温室効果」から一歩踏みだして、「温暖化」のことを研究しはじめたのは誰とすべきなのだろう。アレニウスたちが行なったことだけでは、単純すぎて、地球の温度がこの先何度上昇するか、なんてことは議論できない。もちろん、それは昔の人には現代的な地球温暖化を研究したい、というモチベーションがなかったからだけど、たとえその意思があってもできなかったと思う。研究しようとしても、人間の手にはあまる量の計算が必要だからだ。そのためには、コンピュータの出現を待たねばならない。
温暖化研究につながる研究のうち、初期のものの一つは、真鍋さんたちが 1967 年に行なった研究だろう。地球の大気に対して、水平方向には一様で構造がなく、鉛直方向、つまり、上下方向だけ変化している、という単純化をほどこし、CO2 や水蒸気による温室効果、温められて軽くなった下層の空気が上空に昇って行く対流の効果などを取りいれた計算だ。今では大学生の演習にちょうど良さそうな感じだけど、当時の計算機事情ではこれでもなかなか大変だったんじゃないかな。それでも、その当時は最先端の研究であったことは間違いない。
だけど、真鍋さんが行なったのはほんの第一歩。槌田さんは、この論文を批判しているけれど、決してこれは地球温暖化理論の決定版なんかじゃない。真鍋さんたちの仕事はその後、大気の力学、雲の科学、より精密な温室効果気体による放射への影響、海洋の影響、その他その他などと統合され、気候学の発展の礎のひとつとなった。気候学者たちは、より精密に地球の気候を捉え、そして、CO2 が増加したときにどのように地球が温暖化するか、という問題に対して、まがりなりにも答えを出し、その出した解答を、自ら批判し、少しずつ改良してきた。もちろん、今でも改良は続いている。
そんな活動が結晶化したのが、 IPCC の第 4 次レポート。ワーキング・グループ 1 (温暖化の科学的側面を評価するワーキング・グループ)のレポートの各章につらなる著者名を見て、どれだけ多くの人がこのレポートにかかわって来たかを見ると、これまで積み上げられてきたものの大きさに、僕なんかは溜め息をついてしまう。IPCC のレポートには、もちろん批判も多々あるだろうけど、これは人類の温暖化問題に対する研究の、現時点における最高の到達点なんだ。
積み上げられた成果の集合体、しかも、自らも参加して作り上げた、集合体。気象学会がそれを大切にするのは当然だ。それが正統、というものだ。そして、その積み上げられた理論は、緻密すぎて、槌田さんの論の入る余地はない。
僕自身はそんなことはないと思っているけれど、もしかしたら、IPCC のレポートは現在の天動説なのかもしれない。巨大かつ緻密、まだまだ至らないところはあるけれども、現時点での「正統」気候学の最高峰。
そう、正統は強大なのだ。だからこそ、異端も活躍しようがある。ちょっと風が吹いたらたおれるような正統では、やりがいがないよね。戦う相手が強大であればあるほど、パワーが出るだろう。相手の理論が緻密であればあるほど、その弱点を突く気合が入るはず。
だから、僕は、気象学会は槌田さんの論文を掲載拒否しつづけるべきだと思うのだ。槌田さんに変に媚を売って論文を掲載したりせず、堂々と巨木のようにそびえれば良い。槌田さんが気象学会を倒せなければ、それは彼の持論がその程度のものだった、ということ。もし槌田さんが正統の巨木を倒せたら、地面に横たわった巨木は、次の世代の科学を育む良い土壌となるだろう。
どうだろう。僕が、「異端」を気象学会の雑誌に載せる必要がない、と考えた理由がわかってもらえただろうか。たとえ異端狩りと呼ばれようが、その異端の論文がどんな「天才」の所業であろうが、気象学会の基準にかなわなければ載せる必要はない。載せても気象学会における学問水準の向上に寄与しないのは、前の記事に書いた。そして、載せたからといって、必ずしも異端側にメリットがあるわけではない、と思っているのは、この記事に書いた通り。
だけど、次のことは考えておかないといけないと思う。
森田さんのブログのコメント欄でいろいろな人が述べているように、槌田さんの論文を「玉稿」だと思う人がいるようだ。森田さんもそう思っているかもしれない。槌田さんの論文を読みたい、というニーズはあるのだ。僕自身も読んでみたいと思う。学術として、というより、エンターテインメントとして、だけど。
槌田さんの論文が「天気」に掲載されないとすると、このニーズはどのように満たされるべきなのか?
もちろん、槌田さんはこれまでにも温暖化関係の論文を書いており、世に出ている。たとえば、先の記事で見たような、「季刊at」のような雑誌には掲載されているのだ。
だけど、それだけではなく、槌田さんの論文を、理系の論文として、正当に査読し、掲載する論文誌があって欲しいと思う。
その論文誌は、しかし、気象学会の系列には存在できないだろう。日本のみならず、海外の、例えばアメリカの地球物理学連合や気象学会、ヨーロッパの地球物理学連合、そういった学会の系列の雑誌でも無理だ。
槌田さんだけではない。温暖化懐疑論の「玉稿」はそのほかにもいろいろあるはずだ。それらの論文の多くも、やはり気象学の方法論から大きく逸脱している。気象学会としては拾うことができない。
だから、僕は、温暖化懐疑論者達が学会を組織し、学会誌を発行して、そんな「玉稿」が公表される場を作って欲しいと思うのだ。
旧弊な気象学会が載せられない、素晴しい理論。それが結晶化した論文を精選して掲載する。当初は苦労もあるかもしれない。だけど、時が経てば、玉稿の集まる、素晴しい論文誌になるのは、温暖化懐疑論者には明白だと思う。
中心となる論文誌は、もちろん世界に発信するため、英文誌としてほしい。名称は、Journal of Alternative Climatology なんてどうだろう?新たな気候学を提示する、そんなスケールの大きな題名だ。もちろん、Alternative という単語は賛否両論があろうから、強くは推さないけれど。
同時に和文誌も発行するべきだろう。日本の懐疑論者のコミュニケーシションの場として、そして、一般読者へ向けた情報発信の場として。
以前、懐疑論者たちが学会を組織するべき、という主旨の記事を書いた。そこではあまり触れなかったけれど、学会を作ることは、いままで打ち捨てられていた「玉稿」を世に出す役割を果すためにも必要なのだ。これは、彼らの社会的責任でもある。懐疑論者たちは自覚していただきたい。
温暖化論陣営の本丸、「正統」気象学会に、果敢に「異端」温暖化懐疑論が攻めかかる。個々の懐疑論者としてではなく、集団として組織的に。そして、その武器となるのは、もちろん、「玉稿」を集めた論文誌、 Journal of Alternative Climatology だ。こんな雄大な図が見てみたいと思わないかい?
それにしても、森田さんはどうして槌田さんの論文を「天気」に載せるべきだと思ったのかな。追記で槌田さんの論文の URL を書いているわけだから、槌田さんの論文がどのようなものかは知っているはずだ。そのうえで、ブログ記事を書いている。
やはり、「天才」の著作だと思ったのだろうか。「異端」と思っていて、あえて載せるべきだと述べているのだから。是非、真意を知りたいものだ。記事だけでは書けない、なにかもっと言いたいことがあるのかもしれない。
槌田さんの論文を載せるべきではない、という僕の考えをどう思うかな?彼の論文を掲載する場所が必要だというのは、僕も同意見だ。違いは、その掲載する場が「天気」である必要はない、という点だけだ。
いっそのこと、森田さんが中心になって懐疑論者の意見を集めるのもいいかもしれない、と僕は思ったりもする。



なぜならトンデモの宝庫だからです。
トンデモというのは、現代から見た偏見です(科学的に正しくても)。
私達の常識も未来の人から見れば、トンデモだらけでしょう。
ケプラーは、トンデモの人だと思います。
たしかにティコブラーエの実証研究を考察して、楕円軌道を発見しました。
でも、トンデモな主張もたくさんしています。
だから楕円軌道は、トンデモ論者が珍しく、科学的な真理を発見した例外みたいなもんです。
また天動説側全員が、トンデモだったわけではありません。
天動説に欠陥があるのはわかっていたけど、実用的に不都合が少なかったし、正しい理論が発見できてなかっただけです。
ガリレオはケプラーと同時代ですが、ガリレオはアカデミズムでは理解してくれる人が意外に多かったのです。
科学的な面と政治的な面は、本音と建前だったりします。
アケデミズムではガリレオの説は受け入れられても、世俗では反発する人がいたりするのは現在でも同じです。
『聖書』の記述が何がなんでも正しいとする人達は、現在にもいますが、アカデミズムはアケデミズムで、ちゃんと機能しています。
ところで錬金術が科学を進歩させたように、トンデモが科学を進歩させる気がするのです。
トンデモと思われているけど、実はトンデモでないのが、千に一つぐらいはあるかもしれないと思っています。
★
こちらでは懐疑論者の団結を薦めていますね。
私も賛成なのですが、残念ながら私は懐疑論者から村八分にあっています。
悲しいです。
(><)
丁寧なコメント、ありがとうございます。おもしろく読ませていただきました。
一点だけ、反論させてください。まあ、おおくぼさんのおっしゃる、科学史、というものがよくわからないので、的外れな反論だと思いますが、どうしても書きたくなったので。
> ケプラーは、トンデモの人だと思います。
> たしかにティコブラーエの実証研究を考察して、楕円軌道を発見しました。
> でも、トンデモな主張もたくさんしています。
> だから楕円軌道は、トンデモ論者が珍しく、科学的な真理を発見した例外みたいなもんです。
ケプラーがトンデモの人、というのは理解できません。
実証研究、と一言で書いてしまうと、楕円軌道の発見がとても軽く感じられてしまいますが、ケプラーの頃に使えた道具立てを考えると、全然軽い物ではないと思います。代数幾何学や解析学はもとより、微積分学、デカルト座標のような道具立てさえなかった時代、ギリシャの昔から伝わるアポロニウスの円錐曲線論だけをたよりにケプラーの三法則を導いたその能力と努力を、トンデモ、みたいな軽いノリの言葉で片付けてしまうのは、私の理解を超えることです。もちろん、ケプラーのやったことに迫力を感じるのは私の個人的な気持ちでしかないので、おおくぼさんにわかっていただく必要はありませんが。
さらに、「トンデモな主張もたくさんしています」とのことですが、なにをもってトンデモとおっしゃっているのかわかりませんが、もし多面体太陽系モデルや惑星音階のことをおっしゃっているのなら、それはあの時代では仕方がないことだとおもいますし、真理に近づくための産みの苦しみなのだと私は考えます。
ここで書いたようなことに対して、「トンデモというのは、現代から見た偏見です」ということで説明されているのだろうと思いますが、そうであっても、ケプラーの主張したことを「トンデモです」、と結論づけるのではなく、「トンデモのように思えますが、…」というように説明する必要がある、と思うのです。
どのような定義にせよ、ケプラーを「トンデモ」に分類してしまうやり方には、納得できません。科学史的にはその方が正しいのかもしれませんが、そんな科学史なら私には必要ありません。
> ★
>
> こちらでは懐疑論者の団結を薦めていますね。
> 私も賛成なのですが、残念ながら私は懐疑論者から村八分にあっています。
> 悲しいです。
> (><)
どのくらい悲しいのか、お気持ちは測りかねますが、もしどうしても仲間に入りたくなるような、尊敬できる懐疑論者の方々なら、言うべきことを、きちんと、礼儀正しく主張していれば、そのうち受け入れてくれるのではないでしょうか。
また私は同意を求める訳ではなく、今後の思考の糧になれば・・・ぐらいの気持ちで書いています。
私は議論が好きですが、勝ち負けではなく、議論というプロセスが好きなのです。
★
最初から価値観が決裂しているので、同意は無理だと思います。
>「そんな科学史なら私には必要ありません。 」
これは価値観の違いなので、しょうがないと思います。
繰り返しになりますが、私がケプラーをトンデモというのは、現代から見た偏見であり、当時の人達がどう思ってたかとは別です。
ただ同時代のガリレオと比べると、私にはケプラーのトンデモ度は高い気がします。
多面体太陽系モデルしても、楕円軌道を発見しても捨てていません。
たしかケプラーを尊敬していた哲学者ヘーゲルも多面体太陽系モデルを信じていたと思います。
数学神秘主義と詩的なセンスが融合した感じです。
私は語学は得意ではないので、翻訳や解説書の類で知っているレベルです。
森毅さんの啓蒙書『異説 数学者列伝』 (ちくま学芸文庫) 、『魔術から数学へ』 (講談社学術文庫 )、や村上陽一郎さんの啓蒙書『近代科学を超えて』 (講談社学術文庫) などを参考にしています。
だから専門レベルではまったくありません。
★
「真理に近づくための産みの苦しみ」ということですが、その通りだと思います。
だから、ケプラーの中ではトンデモ理論は、真理を生み出すために必要だったのだと思います。
でも現代に生きている我々はケプラー自身ではないので、トンデモな部分は切り捨てて、真理だけを都合よく使うことができます。
例えば、私達が学校で使っている真理の発見された時系列を無視した、便利な理科の教科書とか。
★
ケプラーが現代、流通しているような評価をされたのは、死後だったと思いますが、もしケプラーの発見した真理の証拠が紛失したり、誰かに盗まれて、別人が自分の発見として発表して公認されたら、ケプラーの評価はどうなっていただろう?みたいなSF的な妄想をするのですが・・・。
もしケプラーが楕円軌道などの現代で評価される真理を発見できなければ、歴史に名前を残さなかったか、トンデモ科学者として評価されたと思います。
支離滅裂なコメントになってしまいまして、すいません。
価値観が違うとのこと、同意は無理だ、という点に同意します。
私も議論の勝ち負けにはこだわりません。というより、議論するとたいてい負けるので、こだわらないことにしている、というのが、実情ですが…
言いたいことはほとんど先のコメントに書いたのですが、一点だけ。
おおくぼさんは、ケプラーのことを、トンデモ、と言ったことに、どれだけの重みを持たせているのですか?
トンデモ、というのは、軽めの言葉ですが、その辺のことが知りたいです。私は、軽い気持ちだった、と想像していますが、合っていますか?
またトンデモという言葉を軽い意味で使っているつもりはありません。
槌田敦を尊敬する懐疑論者から、私は嫌われています。
その理由は、槌田敦を尊敬する人達が集まる掲示板で、私が槌田敦の説に対し、トンデモ説だと言ったことが原因です。
私の無礼な言葉使いと態度に管理人の方は激怒しました。
当たり前です。
でも今でも槌田敦のその説はトンデモ説だと思っています。
★
ケプラーは、精密な実証と論理の整合性を重視するタイプです。そのために歴史的な発見できたのは事実です。
けれどケプラーは、ガリレオやニュートンとは違う思考をしていると思います。
その違いが重要だと私は思っています。
伊勢田哲治さんの『疑似科学と科学の哲学』(名古屋大学出版会)の第二章と
山本義隆さんの『重力と力学的世界―古典としての古典力学』(現代数学社)の第一章と第二章を読んで、特にそう思いました。
念のため確認しておきます。トンデモ、っていう言葉ですが、まず、とても失礼な言葉である、ということ。非常に上から目線の言葉の、すごく偉そうな言葉である、ということです。次に、研究者や学者、もしくはそれを自認している人を相手に、トンデモ、っていう言葉を投げつけるのは、最大級の侮辱である、ということ。その人の存在意義を、その人がよって立つところをまるごと否定する言葉である、ということです。
だから、槌田さんのことを尊敬する人が集まる掲示板で槌田さんのことをトンデモって言ったなら、そりゃ激怒されますよね。それは、おおくぼさんがみずから理解されているとおりです。激怒されること前提の、なにか驚くべき作戦がおおくぼさんの中にあったのだと想像します。
まさか、とは思いますが、前のコメントで、村八分にされているのを嘆いていましたけど、それって、槌田さんのお仲間のことではないですよね?相手の顔に唾吐きかけておいて、仲間はずれにされて悲しい、というのは、悪い冗談です。笑えないコントです。そうでないことを祈ります。
で、私に関して言うと、確かにかんに障りました。ですが、まあ、理論をトンデモ扱いされているのは私ではなくケプラーなので、所詮は人ごとです。とはいえ、おおくぼさん、どんだけ偉いんだろう、どんな天才なんだろう、とは思いました。
この時点で、おおくぼさんが科学史について何か言っても、聞く気がまったく失せてしまったのですが、それだけじゃ自分があまりにも頭悪そうなので、もうちょっとだけ、話しておきます。
それは、トンデモ、という単語は、侮辱語であるだけではなく、もしくは、侮辱語であるせいで、非常に扱いにくい言葉だということです。
理由ですが、まず、トンデモ、がコミュニケーションを断絶する言葉だ、ということ。トンデモ、と言ってしまうことによって、その言葉を投げかけた相手と、意志の疎通が不可能になってしまうのは、おおくぼさんも経験したとおり。
さらに、思考を断絶する言葉だ、ということ。トンデモ、とレッテルを貼ることによって、時代背景とかその人の個性とかについて考察を深めることが不可能になってしまう。ただ嘲笑の対象にするだけになってしまいます。先のコメントで、「今後の思考の糧になれば」と書かれていましたが、こんな、思考を断絶してしまう言葉を持ってきて、それはないだろう、と思いました。
そのうえ、想像力を断絶する言葉だ、ということ。手垢のついた、薄っぺらいことばで、わくわくするものを何も生み出さない。そのわりには、学術的もしくは日常的な意味づけがしっかりしているわけでもなく、くっきりとしたイメージを心の中にもたらさない。
私は、トンデモ、という言葉を使うのに慎重です。ここまで長々とした記事をいくつも書いてきましたが、さっき検索してみたところ、二つの記事でしか、トンデモ、と書いていませんでした。しかも、どういう場面で使ったかを見てもらえば、私のこの言葉に対する態度がわかってもらえると思います。
その理由は、先にも述べたとおり、断絶の言葉だからです。たとえば、このコメントがついている本文が扱っているテーマで、「槌田さんの論はトンデモだ」と言ってしまえば、あっという間に話が終わってしまいます。書くことが無くなります。それに、おもしろくも何ともない。
もちろん、トンデモを使ってはいけない、とは思いません。でも、デメリットを補って余りあるメリットがないと、使う必要が無いと思います。思考を断絶させられた上でなお、すばらしい情報を、新しい認識を引き出すことができるなら、使っても良いでしょう。それには、該博な科学史の知識、卓抜した言語能力をベースにした、周到に練り上げられた戦略をたてることが必要だと思うのです。
でも、私にはそんな能力はない。どうやったらそんなことができるか想像もつかない。だから、今後もこのブログで「トンデモ」という言葉を見かけることは少ないでしょう。出てきたとしても、こっそりと使っていると思います。
おおくぼさんは、トンデモ、という言葉を軽々しく使ったわけではない、とのこと。ほかのどの言葉も当てはまらず、トンデモ、という言葉だけがぴったりと当てはまる、ということですよね。つまり、ケプラーの業績を土足で踏みにじっている、ということを認識したうえで使われているのだと思います。そして、その落とし前をつける覚悟があるのだと言うこと。
それならそのように振る舞っていただければと思います。「支離滅裂なコメントになってしまいまして、すみません」なんて、謙遜でも書いてはいけません。私がこころのそこからすばらしいと思える斬新な科学史を披露してもらう必要があります。ミニ知識をちょっと書いてみました、程度のものでは納得できません。
そして、すばらしい科学史を書くには、このコメント覧では不足でしょう。御自身のブログで、余すところ無く表現していただければ良いのではないのでしょうか。
なんか、感情的なってしまい、無駄にたくさんのことを書いてきました。自分がバカに思えてきましたが、でも心のままにもう少しだけ。
もう、このブログでおおくぼさんとケプラーについて議論することはやめたいと思います。そのために、おおくぼさんに向かって、「ケプラーを、トンデモ、なんて言ってしまう科学史なんて、トンデモだ」と言わせてもらいます。
そして、小学生はよく知っているけれど、大人は忘れてしまっている真理を、ちょっと書き換えて、おおくぼさんに贈ります。
トンデモって言っている方がトンデモなんだよ